「退位特例法」の無効廃止と正統憲法・正統皇室典範の復原奉還を
                     黎明教育者連盟講師 柴田 顕弘
今回、平成二十八年八月八日の今上陛下の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」を受けて、平成二十九年六月九日に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」(以下「退位特例法」)が国会で成立しましたが、この法案にはいくつかの問題点があります。
 まずこの「退位特例法」の第一の問題点として、皇室伝統に基づかない言葉が使われてされていることが挙げられます。『譲位』とすべきところを「退位」としている点で、天皇陛下及び皇室に対する敬意が全く感じられません。
 皇后陛下(現 上皇后陛下)は、天皇陛下(現 上皇陛下)のお言葉が発せられたのち、メディアで「生前退位」という言葉が流布されていく現状に、深いご憂慮とご懸念を明確に示されました。それにも関わらず、「生前退位」「退位」なる言葉を使い続け、「退位特例法」という法律まで成立させた政治家・知識人・メディア関係者は、皇室に対する不遜不敬を働いていることを猛省すべきです。
 さらに『譲位』は連綿とした皇位継承を前提とした伝統的な言葉であるのに対し、「退位」には、皇室伝統で使われたことなく、しかも最終的に天皇制を廃止するという含意がある言葉だということです。
 その他に、天皇陛下(現 上皇陛下)が「御退位」なされたあとには、美智子皇后陛下は「皇太后(こうたいごう)」ではなく「上皇后(じょうこうごう)」と称されて、秋篠宮文仁親王殿下は「皇太弟」とより明確に規定されず、「皇嗣(こうし)」とのみ位置付けられます。
とくに注意すべきは、「皇太子」と同位である「皇太弟」を用いない有識者会議や法案作成者の意図はどこにあるかということです。
 一つの仮説としては、秋篠宮文仁親王殿下を「皇太弟」でなく「皇嗣(こうし)殿下(でんか)」と御呼びする一方で、皇太子徳仁親王殿下(現 今上陛下)の天皇御即位後、「皇太子」の御位が空位状態なることを口実に、愛子内親王殿下を皇太子とし、将来の女性天皇・女系天皇を成立させるための布石として国会で皇室典範改定を謀ろうとしているのではないかということです。
 現行皇室典範の第十一条第二項には「親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王は、前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。」とあり、皇太子・皇太孫以外の皇嗣(こうし)殿下(でんか)であれば「皇室会議の議」によって、「皇族の身分」を離れさせる可能性がでてくる余地もある、と解釈されかねないと思います。そもそも皇室の事を論じる「皇室会議」の構成議員十名のうち、天皇陛下を除く皇族が二名しか出席しないこと自体がナンセンスです。
 第二点目として「退位特例法」の作成成立過程自体も問題でした。
 政府与党は、今上陛下の御譲位に際して、国会が喧々諤々の議論となり国論が割れることを避け、野党と根回して全会一致の賛成を経て表面的に穏便な法律成立を優先させました。野党は、この与党の姿勢の間隙をついて、法案に付帯決議に「女性宮家」なる言葉を導入させたのでした。
 そもそも、皇室伝統の解体に繋がる「女性宮家」の導入を意図し、いわゆる「天皇制」を廃止することをテーゼとする政党が皇位継承に関する議論に参加すること自体が、国体破壊を促す意図をもつものであることは自明の理というべきでしょう。従って与野党の妥協の産物として成立した「退位特例法」は皇統護持の観点とは真逆の法律にならざるをえないのです。
 しかも今回の「退位特例法」をめぐる議論において菅義偉官房長官(当時)は以下のように答弁しています。
 「法案の作成に至るプロセスや、その中で整理された基本的な考え方は、将来の先例となりうる」
 つまり「退位」や「皇嗣の不就位」、付帯決議に明記された「女性宮家」の考え方は、今後の皇室典範改定の議論・法案の「先例」になるという解釈の余地を残した見解を表明したことになります。すでに今上陛下一代限りの『退位特例法』の『特別例外の措置法』という意味がすでに捻じ曲げられている実態を認識しておく必要があると思います。
 谷口雅春先生は、ご生前次のように警告されておられました。
「偉大なる芸術家は、鋭敏に対象の生命を観る。そして勇敢に、その生命そのものを筆端に縦横に走らせてそれを描く。偉大なる政治家は、まず国家の生命を把握する。そして国家の生命を生かすために今何を為すべきかを自覚して、勇敢に、芸術家が縦横に筆を走らす如く、縦横無尽に躊躇なく、他人や他党の顔色を見ることなく、断行すべきことを断行するのだ。(中略)
 譲歩と妥協による一時的平和ムードで現行の憲法を温存しておく間に、病菌の如くビールスの如く、赤化思想が国内に浸透して、病原体が人体を滅ぼす如く、国家を滅ぼしてしまうのである。」(谷口雅春『私の日本憲法論』)
 まさにわが国の現状は、占領憲法を「温存」しつつけてきた結果、国家滅亡への道を歩みつつあるのであり、今回、政府与党が野党との「譲歩と妥協」によって、一連の「女性宮家」付帯決議付「退位特例法」を成立させた結果、更なる国体破壊へ繋がっていくことをも鋭く洞察した言葉であるといえましょう。
 もしも安倍総理(当時)が「偉大なる政治家」たらんとするならば、「縦横無尽に躊躇なく、他人や他党の顔色を見ることなく」、現行の占領憲法及び皇室典範の無効を確認し、大日本帝国憲法と正統皇室典範(明治皇室典範)の復元宣言を行うのが、本来とるべき道であったと思われます。なぜなら、皇室伝統・慣習法に基づく『法の支配』の観点からすれば、「悪法は無効なり」であり、わが国の主権が失われた時期に制定された正当性のない占領憲法や占領典範、それらに立脚した「退位特例法」は必然的に無効といえるからです。
 では、ここで現行の占領憲法と帝国憲法を比較対照しつつ、問題点と今後の施策について述べたいと思います。
日本国憲法(占領憲法)
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
 占領憲法第一条・第二条を前提とする限り、現在生きている「主権の存する」国民が「総意」の名の下に、歴史伝統や皇祖皇宗・祖先の遺志を無視して天皇の地位を変えることになり、また今回の「退位特例法」のように、国会の議決による法律に堕した皇室典範をいかようにでも改定・改悪し、皇室廃絶・國體破壊を進めて行く帰結をもたらすでしょう。
 次に、帝国憲法の第一条・第二条・第七十四条を挙げてみます。
大日本帝国憲法(明治憲法・正統憲法)
第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第七四条 皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス
 帝國憲法第一条では、天皇の永続が条文で確約されていますし、第二条については、伊藤博文公の『帝国憲法義解』よると、皇室典範を「皇室の家法」と位置づけ、「将来に臣民の干渉を容れざることを示すなり」と説明されていました。つまり皇室典範は、本来「臣民(国民)」の干渉は受けない至高の『法』であり、憲法と同格の位置付けで現在のような「法律」ではありませんでした。
 因みに明治皇室典範の第一条は「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とあり、『皇室典範義解』には「皇統は男系に限り、女系の所出に及ばざるは皇家の成法なり」と解説がなされ、皇室の歴史と教訓を踏まえて、皇位継承は男系男子で女系は認めていませんでした。
 第七十四条については、「皇室典範は皇室自ら皇室の事を制定する」と「帝國憲法義解」では解説がなされ、皇室の自治と自律が明確に保障されていたのです。
 これらの点を踏まえれば、今後の皇位継承に関しては、帝国憲法を復元し正統なる明治皇室典範を皇室に奉還するのが抜本的な正道です。
従って、現行(占領)皇室典範の改定や特例法に依る、女性皇族や女性宮家を前提とした旧皇族男子との「養子」縁組ではなく、『原状回復』の法理の観点に立ち、正統憲法・正統皇室典範復原奉還に基づき、旧宮家の方々に皇籍復帰して頂き宮家を増やし、天皇陛下中心の「皇族会議」を復活した上で、「皇室が自ら皇室のこと」をお決めいただけるように環境を整えることが『臣民(国民)』としての務めでなのではないでしょうか。
少なくとも先ずは手始めに「天皇制廃止準備法」に堕した「退位特例法」を廃止して『譲位特例法』へ改正奉呈していくことが、真の意味での「安定的な皇位継承」に関しても必要不可欠ではないでしょうか。(2021年・令和3年10月5日改訂)

 道徳教育と祭祀~教育勅語と修身に学ぶ
                     黎明教育者連盟講師 柴田 顕弘
 
現在の我が国の殺伐とした世相や荒廃した社会状況の下で、道徳教育の再建は焦眉の急であります。またグローバリゼーションの進展とともに大和民族・日本国家のアイデンティティが希薄になる一方で、国際紛争の激化に直面しつつある今日、『日本の心』を育む教育の有無は、我が国の存亡を決するといっても過言ではないと思います。
令和二年(二〇二〇年)は、明治天皇が教育勅語を下賜されて百三十三年の佳節にあたりました。改めて今、明治大帝を始め井上毅・元田永孚等先哲の知恵の結晶である『教育勅語』に学ぶ意義は大きいと思います。
皇太子裕仁親王殿下(のちの昭和天皇)の御養育に携わられた東宮御学問所御用係であった杉浦重剛は、その御人徳・御見識を育成するにあたって、「倫理御進講の趣旨」のなかの基本方針の中で、次の三点を挙げています。

  1. 三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと。

  2. 五条の御誓文を以て将来の標準と為し給ふべきこと。

三、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給ふべきこと。
そして、『教育勅語』ついては、明治天皇が「わが国民に道徳の大本を示されたもの」であると同時に、「至尊(天皇)も亦之を実行し給ふべきことを明言せられるもの」であるので、「皇儲(皇位継承者)殿下・・・御自らも之を体して実践せらるべきもの」と述べておられます。(杉浦重剛著『昭和天皇の学ばれた教育勅語』 編集・解説 所功)
 『教育勅語』に基づく教育が、偉大なる聖帝・昭和天皇の原点にあるとともに、『帝王学』にもなっていることがわかります。
 去る十一月八日に、「立皇嗣の礼」が斎行され、秋篠宮文仁皇嗣殿下が、皇位継承の第一人者として国内外に宣明がなされましたが、それに先立たれて明治神宮へも参拝なされました。
皇室伝統・明治皇室典範の流れを踏まえた、現行皇室典範第一条「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」に従って、今上陛下・秋篠宮皇嗣殿下・悠仁親王殿下への皇位継承を護りぬくことが、天皇国日本に住む国民(臣民)に課せられた『世襲』の義務でもあります。それを誠実に履行していくためにも、君民一体・忠孝一本の国体(国柄)の回復が必要であり、教育勅語の復活とその精神に基づく教育こそ、皇統護持の要諦であるともいえましょう。
 
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス(『教育勅語』)
 
杉浦重剛は、この御文章の意義として次のように解説しておられます。
 
「日本国民の皇室におけるは、孝子の親に事ふると一なり。我が国にては忠孝一本なり。われらの祖先は、万世一系の天皇に仕へまつり、われら子孫も、この心を以て天皇に仕ふ。これ、祖先の名を辱しめず、その霊を安んずるものにして、親に事ふるの道、これより大なるものなし。祖先の心を心として君に仕ふるは、忠にして同時に孝なり。」
「わが国体(国柄)は、万国に卓絶し、肇国宏遠、樹徳深厚なる皇祖皇宗を奉戴せる臣民は、心を一にして世々忠孝の道を践み行ひ、以て国民道徳の美風を発現す。これ国体の華とも称すべき本質なり。この国民的精神を外にして、我が邦教育の基礎無し。忠孝は国体の精華にして、教育の淵源(基づく所)はここに存ず」(杉浦重剛 前掲書)
 
『教育勅語』の実践とは、親・祖先・八百万の神々・天照大御神・皇尊(総命)と繋がる生命の流れを体感する感性・情緒を育む教育のことであり、それはます各家庭の中で行うべきものだと思います。それは毎日の先祖祀りや折々の氏神参りの実践、つまり敬神崇祖を親御さん・保護者が身をもって子供たちに示すところから始まるのではないでしょうか。かつては当たり前であった先祖とともにある日本人の生き方は、日々の祭祀の実践を通じて養われていきました。尊いものに首を垂れる習慣は、慎みや謙虚さ、そして生きる力をも与えてくれます。
戦後、GHQの占領政策により神道が宗教と位置付けられ、いわゆる「神道指令」によって神社神道も一宗教法人となりましたが、日本人は、自ずから生活のなかで「神」を身近に感じてきたのではないでしょうか。
『観の教育(生命の教育)』の提唱者である谷口雅春先生は、次のように述べておられます。
 
「大体、神道は本来、『道』であって宗教ではないのである。宗教は『教』であるから宗教法人法にあるが如く教をすることがなければならない。『道』というのは『教』ではなく、自然『神ながら』に人間が踏み行うべき道である。つまり父母を愛し祖先を敬し報本反始の誠をつくすのは自然の人情であって、祖先を礼拝し挨拶し食事を供えるのは宗教ではなく日常の作法であり道である。」(『神の真義とその理解』所収「伊勢の神宮について」より)
 
『教育勅語』が示す十二の徳目(『観の教育』2ページ参照)は、このような「人間が踏み行うべき道」の本質が明快に示されています。
 
ところで、去る十月十七日、中曽根康弘元内閣総理大臣の政府・自民党葬が執り行われました。コロナ禍で延期がなされたことが理由ですが、私はこの日に執り行われることに少なからぬ違和感を覚えました。なぜなら十月十七日は、『神宮(伊勢神宮)』で神嘗祭が執り行われる大切な祭日であったからです。政治家や官僚はこのことを知らなかったのでしょうか。それとも知っていながら敢えて挙行したのでしょうか。その真相はわかりません。しかし、神嘗祭は、昭和二十二年までは祝祭日で休日でありました。戦後は学校教育で、日本の国柄の根幹をなす神道や皇室に関することがほとんど教えられていないので、このような事が起こるのではないかと思います。
因みに、かつての修身教科書では次のように教えています。
 
第二十七 【祝日祭日】
 
我が国の祝日は、新年、紀元節、天長節にて、これを三大節という。
新年は年の始まりを祝い、紀元節は二月十一日にて、我が帝国の紀元を祝い、天長節は十一月三日にて、天皇陛下の生まれたまいしを祝うなり。
祭日は一月三日の元始祭、一月三十日の孝明天皇祭、春分の春期皇霊祭、十月十七日の神嘗祭、十一月二十三日の新嘗祭なり。
これ等の祝日、祭日は、いずれも、我が国にとりて、大切なる日にて、宮中にては、天皇陛下、自ら、御儀式を行わせたまう。(尋常小学修身書 第五学年用)
 
このように戦前においては、『教育勅語』の教育方針の下、『修身』教育で体系立てて、国柄をわかりやすく小学生のころから教えていったのです。そして祝祭日を通じて、国民の連帯感を養ってきたのでした。
戦後「軍国主義」批判の名の下に失われた、かつての尊い美徳や美風を改めて見直し、「よきをとりあしきを捨てて」活かすべきものを活かして、次の世代へつなげていきたいものです。

教育勅語を見直そう
 十月三十日は 明治天皇がお示しになられた教育勅語渙発の記念の日(明治二十三年十月三十日)にあたります。今日我が国の教育は、残念ながら混迷の一途をだどっている感は否めません。混沌とした時代状況と民族のアイデンティティーが希薄になりつつある世相の中で、日本人のあるべき姿は何か、人として生きる『道』を、改めて教育勅語を通じて見直し、今後の教育の在り方を考える一つの契機として本稿を記したいと思います。
 
逆・教育勅語
明治神宮では、教育勅語が示す十二の徳目についてわかりやすく紹介しており、人間として生きる当たり前の道徳が示されています。
ところが戦後は、教育勅語を所謂「軍国主義」教育の権化として非難し、その精神に基づく教育をも否定してきました。
では、この十二の徳目を否定した教育とは一体どのような教育なのでしょうか。
憲政史家の倉山満氏は著書のなかで、十二項目の教育勅語とは真逆の項目を列挙しています。
 

  1.  親に孝養を尽してはいけません。家庭内暴力をどんどんしましょう。
  2.  兄弟・姉妹はなかよくしてはいけません。兄弟姉妹は他人の始まりです。
  3.  夫婦は仲良くしてはいけません。じゃんじゃん浮気をしましよう。
  4.  友達を信じて付き合ってはいけません。人を見たら泥棒と思いましょう。
  5.  自分の言動を慎んではいけません。嘘でも何でも言ったものがちです。
  6.  広く全ての人に愛の手をさしのべてはいけません。わが身が第一です。
  7.  職業を身に着けてはいけません。いざとなれば生活保護があります。
  8.  知識を養い才能を伸ばしてはなりません。大事なのはゆとりです。
  9.  人格の向上につとめてはいけません。何をしても「個性」といえば許されます。
  10.  社会のためになる仕事に励んではいけません。自分さえ良ければ良いのです。

十一、法律や規則を守り社会の秩序に従ってはいけません。自由気ままが一番です。
十二、勇気をもって国のために真心をつくしてはいけません。国家は打倒するものです。
 
 いかがでしょう。教育勅語の精神の否定とは不道徳のすすめであって、現在の世相に蔓延する風潮ではないでしょうか。
GHQの占領政策に由来する日本国憲法(占領憲法)と教育基本法、さらには革命思想に裏打ちされた日教組を中心した戦後民主主義教育の帰結ともいえましょう。
 因みに占領期の昭和二十三年(一九四八年)六月十九日、衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」、参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」を行っています。
 例えば、参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」の冒頭には以下のように記されています。
 
「われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。」
 
ならば、「人類普遍の原理」とは一体何でしょうか。日本国憲法前文でいう「人類普遍の原理」の一つは、「国民主権」のことですが、「国民主権」は果たして「人類普遍の原理」といえるでしょうか。
 例えば、英国・米国の憲法には「国民主権」概念は存在しません。
 ナチス・ドイツの全体主義の経験をしたユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレントは以下のように述べます。
 
「政治それ自体における偉大な、そして長期的に見ればおそらく最大のアメリカ的革新は、共和国の政治体内部において主権を徹底的に廃止したということ、そして、人間事象の領域においては主権と暴政とは同一のものであることを洞察したこと」
 
フランス革命・ロシア革命の暴政や全体主義の一因が、「国民主権」にあるのであれば、「人類普遍の原理」とはとても言えないでしょう。
 
では『教育勅語』は、真の意味において「人類普遍の原理」に則っていないのでしょうか。ここで教育勅語制定に深く関与した井上毅の考えと、教育勅語制定後の国際的な反響を見てみることにしましょう。
 
教育勅語起草の中心人物 井上毅の意図
井上毅は、明治二十三年六月二十日付けの山県有朋首相にあてた書簡で、七ヵ条にわたる草案作成の前提条件を述べています。
その趣旨を要約すれば、立憲政体の国では、『君主は臣民の良心の自由に干渉せず』が原則で、教育内容についての 天皇のお考えを明確にするなら、政事上の勅語と区別して、『社会上の君主の著作公告』として発することが望ましいこと。つまり、大日本帝国憲法の「信教の自由」との整合性を意識したこと。宗教・宗派・「宗旨上の争い」を起こさないように意識したこと。 天皇に政治上の思惑に関わらせないようにすること。堂々たる言葉を使って表現すること。一つの思想・考え方に限定されることなく、東洋・西洋を超えた、不変不党の教育の指針を示すこと、等々が挙げられましょう。
井上毅案の言葉の一部を示します。
 
「其ノ道ハ実二祖宗ノ遺訓二シテ、子孫臣民ノ倶二守ルベキ所、凡ソ古今ノ異同ト風気ノ変遷トヲ問ハズ、以テ上下二伝へテ謬ラズ、以テ中外二施シテ悖ラザルベシ。朕、爾衆庶ト倶二遵由シテ失ハザランコトヲ庶幾フ。」
 
以上のように、『普遍』『不変』『不偏』に拘りぬいて、草案が作成され、井上毅の案を活かして修正が施されて、明治天皇は何度も推敲を重ねられ、『教育勅語』が完成していったのです。
 
世界に注目される教育勅語
欧米諸国の予想に反して、日露戦争で連戦連勝を重ねていった我が国をみて驚いた米国人は、ハーバード大学出身のセオドア・ルーズベルト大統領と面識のある金子堅太郎に、日本の教育にその秘訣があるのではと質問しました。金子は軍人勅諭とともに教育勅語をあげ、教育勅語の英訳を披露したところ多くの米国人が称賛したという逸話がありました。
日露戦争後、金子は、政府によって正式に勅語を翻訳する必要性を牧野伸顕文相に提言しました。そして東大総長・文相を歴任した菊池大麓や新渡戸稲造らにより、英訳本が明治四十年に出され、漢訳が出来上がります。
明治四十一年に英国のロンドンで開催された国際道徳会議において、菊池大麓が『教育勅語』について講演し好評を博しました。
明治四十二年にはフランス語訳・ドイツ語訳が完成します。そして在外公館を通じて世界各国に配布されました。
 
 
世界で評価される教育勅語の精神
・フランス人記者の教育勅語観
「AFP」通信社の東京支局長レオン・プルー氏が、読売新聞社の「外人記者の直言」に投稿した『教育勅語と漢文の問題』の論文の一部を紹介しましょう。
 
「儒教道徳にもとずく教育勅語は、終戦以来不可ということになり、デモクラシーの精神に反するものとして、今では教育界から追放の憂目に会っている。ところで私は外人記者として直言するが、この教育勅語をめぐる論争は私には何のことかさっぱり判らないのである。論理的にいって、もし勅語が間違っていれば、その反対は正しいということになるは筈である。もし反民主主義といわれる教育勅語が『これをせよ』と説いているならば、民主主義はいやでも『これをするな』といわなければならない。この論法で行くと、とんでもないことになる。教育勅語に反対する人達は、父母に不幸を尽し、兄弟。夫婦ゲンカ朋友の不信を奨励し、さらにエゴイズム、文盲主義、社会主義。違憲行為を説く教えを奉ずることになるではないか。これではいくら何でも修身とはいえまい。」
 
・ドイツ
第二次世界大戦後、西ドイツは日本よりも早く復興を成し遂げます。日本の団体がアデナウワー首相を表敬訪問して、「ドイツの早期復興の原動力は何ですか」と尋ねると、首相は執務室の壁に掲げてある額縁を指さして、「これが早期復興の原動力です」とこたえ、「これは、日本の教育勅語です。我々は、この教育勅語の精神を学んだおかげで復興を成し遂げることが出来ました」と言われたとのことです。
 
・アメリカ
レーガン大統領が就任した時、当時は青少年の風紀は乱れ、暴力・麻薬の蔓延で社会は荒廃していました。大統領は、道徳教育の復興に乗り出します。その道徳教育改革の中心人物がW・ベネット氏で、レーガン政権時の道徳教育担当者の知識を活かして『The Book of  Virtues(道徳教本)』(『魔法の糸――こころが豊かになる世界の寓話・説話・逸話100選)』実務教育出版)が書かれました。そこには教育家の小池松次氏の著作を基に『教育勅語』や『修身』が参考にされたという知られざるエピソードがあります。
 
・台湾
 故 蔡 焜燦氏の著書『台湾人と日本精神(リップンチェンシン)』の「台湾の精神基盤となった道徳教育」の中で、実体験に基づき以下のように述べています。
 
「私の母校・清水公学校では、内地の学校と同じように式典時には、教育勅語を唱えたものだ。私はこの教育勅語が戦後の日本で軍国主義的なものではなかったと考えている。『一旦緩急あれば義勇公に奉じ』、これは国民として当然の義務であり、また『夫婦相和し、朋友相信じ』などは現代でも古今東西に通じる〝人の道〟であると信じている」
 
また東方工商専科大学(現東方設計学院)創立者の日華教育交流を始めとする台日の民間外交に寄与された故 許 國雄博士は、ご自身が設立された学校で『教育勅語』による教育を行っておられました。著書『台湾と日本がアジアを救う』の「教育勅語の冤罪を晴らそう」中で次のように述べます。
 
「私の学校には、日本文のほかにも漢文と英文とドイツ語とフランス語の教育勅語があります。私の学校だけでなく、私たちがヨーロッパへ行った時、ドイツの中学校でも日本の教育勅語を教えていました。(中略)
 これは、明治天皇が国民と共に自らそのように努めたいというお気持ちをお述べになられたものです。だから、勅語には国務大臣の署名もされておらず、従って法的な拘束力もありません。
 戦後、米占領軍が教育勅語を軍国主義だと批判して、日本の国会に命じて、その失効決議をさせました。法律でないものを国会で失効させるとは奇妙な話です。否、もともと法律でないのですから、国会で決議されても教育勅語自体には何の疵もつきません。変わったのは、国民の意識だけです。
 しかし、失効決議自体が行われたこと自体がおかしなことですから、日本の国会で再度、教育勅語の失効決議は誤りだっだと決議してはどうでしょうか。教育勅語に対する冤罪を国会で晴らすのです。そして、教育勅語のすばらしさ、日本の皆様はもう一度目をむけるべきだと思います。」
 
 まとめ
 天皇国日本・道義国家日本の道徳教育再生には、世界でも評価される『教育勅語』の精神を甦らせる必要があります。まずは民間レベルで、教育勅語の精神を学び活かす教育を地道に行う必要があると思います。少なくとも教育基本法が出来た当初、田中耕太郎文部大臣が、「教育勅語の徳目が古今東西を通じて変わらない人類普遍の道徳原則であり、民主憲法の精神と決して矛盾しない」と述べたことに注目すべきです。ましてや改正教育基本法第二条では、「豊かな情操と道徳心を培う」「公共の精神に基づき(中略)社会の発展に寄与する」「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国 を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」とあるのですから、教育勅語の精神を活かした教育をおこなうことに何の支障もありません。
 最後に本来公には、占領憲法無効・帝国憲法復元宣言とともに、教育勅語失効決議の無効も確認すべきことも付言しておきます。
 
【参考文献】
・伊藤哲夫『教育勅語の真実』致知出版社
・大原康男解説『教育勅語』神社新報社
・貝塚茂樹『戦後日本と道徳教育 教科化・教育勅語・愛国心』ミネルヴァ書房
・許國雄『台湾と日本がアジアを救う 光は東方より』明成社
・倉山満『逆にしたらよくわかる教育勅語 ほんとは危険思想なんかじゃなかった』
ハート出版
・小池松次『世界の徳育の手本となった教育勅語と修身』日本館書房
・蔡焜燦『台湾人と日本精神』小学館文庫 
・杉浦重剛著 所功解説・編集『昭和天皇の学ばれた教育勅語』勉誠出版
・谷口雅春『美しき日本の再建』日本教文社
・中川八洋『正統の憲法 バークの哲学』中央公論新社
・中川八洋『国民の憲法改正 祖先の叡智 日本の魂』ビジネス社
・南出喜久治『占領憲法の正體』国書刊行会
・ハンナ・アーレント『革命について』ちくま学芸文庫
・明治神宮ホームページ 教育勅語https://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.php

一、始めに
 
今回の今上陛下から皇太子徳(なる)仁(ひと)親王殿下への御譲位(ごじょうい)としての皇位継承は、閑院宮(かんいんのみや)の光(こう)格(かく)天皇(てんのう)から仁(にん)孝(こう)天皇(てんのう)への御譲位(ごじょうい)以来凡(およ)そ二百年ぶりの御(ご)慶事(けいじ)になります。日本国憲法(占領憲法)・現行(げんこう)皇室(こうしつ)典範(てんぱん)(占領(せんりょう)皇室(こうしつ)典範(てんぱん))並びに明治(めいじ)皇室(こうしつ)典範(てんぱん)(正統(せいとう)皇室(こうしつ)典範(てんぱん))では、『譲位』規定がないので、今回は現行皇室典範に補足する形で『天皇の退位等に関する皇室(こうしつ)典範(てんぱん)特例法(とくれいほう)(成立:平成二十九年六月九日、公布:平成二十九年六月十六日 以下『退位特例法』)』が国会で制定されました。そして政府内の「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典(しきてん)委員会(いいんかい)(以下『式典(しきてん)委員会(いいんかい)』)」によって御代替(みよが)わり儀式(ぎしき)の準備が執り行われています。
 
そして式典委員会が発表している『天皇陛下御退位に伴う式典の考え方』のなかにある「憲法(けんぽう)の趣旨(しゅし)に沿(そ)い、かつ、皇室(こうしつ)の伝統(でんとう)等(とう)を尊重(そんちょう)したものとする」と基本方針の下で、四月三十日に「退位(たいい)礼(れい)正殿(せいでん)の儀(ぎ)」、五月一日に「剣璽(けんじ)等(とう)承継(しょうけい)の儀(ぎ)・即位(そくい)後朝(ごちょう)見(けん)の儀(ぎ)」、十月二十二日に「即位(そくい)礼(れい)正殿(せいでん)の儀(ぎ)」、十一月十四日・十五日には「大嘗祭(だいじょうさい)」と御代替わりの重要な諸儀式が斎行される予定となっています。
 
さて一世(いっせい)一代(いちだい)の喜ばしい御代替わりの儀式において、現在政府が計画(けいかく)立案(りつあん)して遂行している一連の儀式が果たして皇室伝統に則した歴史ある立憲(りっけん)君(くん)主(しゅ)国(こく)・天(てん)皇国(のうこく)日本(にほん)の儀礼として相応(ふさわ)しいものなのでしょうか。実は現行法制下においては、皇室伝統が破壊され、本来の皇位継承の在り方に齟齬(そご)が生じているのではないかという問題提起と、本来の皇位継承・御代替わりの儀式の再興を願いつつ論じてみたいと思います。
 
二、次善の策〜「退位特例法」から「『譲位』特例法」への改正を〜
 
天皇陛下・皇后陛下は今回の御代替わりにあたっては一貫して『譲位』という皇室伝統に基づいた正しい言葉を使われているにも関わらず、政府・国会、並びにマスコミは日本国憲法の解釈から「生前退位」「退位」いう言葉を用いています。
 
留意しておきたいのは、憲法学者の宮澤(みやざわ)俊(とし)義(よし)氏の影響を受けた戦後憲法学は「退位」という言葉を「天皇制廃止」から「共和制」への移行のために意図的に用いているという事です。宮澤憲法学の下(もと)に「国民主権」や「政教分離」の概念を駆使しながら、現在の内閣法制局や宮内庁などが御代替わりの儀式を、憲法解釈をして「退位」「即位」の分離や諸儀式を「天皇の国事行為・皇室の公的行事・皇室の私的行事」と区分けして遂行しようとしています。
 
今回の天皇陛下の御意思による「譲位」或いは「退位」に関しても、憲法解釈として内閣法制局は、「国事行為には当たらないが、国政に関する機能の行使には当たるのではないか」という主旨の見解を述べて「憲法違反」の疑義があるとしています。もっとも「譲位」は「国事行為に含まれていないので、国政に関しない機能」とも解釈できそうなものです。ところが天皇陛下が皇太子殿下に皇位を御譲りになるのが「国政に関する機能の行使に当たる」と理解しているので、天皇陛下の御意思がより強く含まれる「譲位」ではなく「退位」という言葉を使い、天皇陛下の御意思を排する形で憲法第四条違反にならないように、あくまで政府・国会主導で「退位特例法」を制定して天皇を「退位」させ、時間的連続性のある『譲位・受禅の儀』という皇室伝統に則した皇位継承の在り方を否定して、「退位礼正殿の儀(退位礼)」「剣璽等承継の儀(即位礼)」を分離して挙行を企てているという訳です。
 
しかし占領(せんりょう)典(てん)憲(けん)を前提にするにしても、南出喜久治氏が指摘なさるように、占領典範第四条「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」を限定的に「天皇の御叡意による譲位は、この限りではない」として、「譲位の場合は皇統連綿における時間的間隙がありませんので、今上の叡意によって自由になさればよい」(注1)と解釈して『譲位・受禅の儀』による御代替わりの儀式を斎行しても良かったのではないでしょうか。
 
本来ならば、皇室の自治と自律を奪う「占領典憲並びに退位特例法」は無効であって、正統(せいとう)典(てん)憲(けん)を復元して皇室典範を御皇室に奉還して「皇室会議」でなく天皇陛下が中心となった『皇族会議』で皇位継承をお決め頂くのが正道です(注2)。
 
しかし、仮に今はそれが難しいのなら、そもそも法解釈は、その国の歴史・慣習・伝統文化を踏まえて為すべきであって、現行法制下であっても、占領憲法第二条の『世襲』の概念を踏襲すれば、わが国の皇位継承は皇室伝統の上では時間的連続性のある「崩御(ほうぎょ)・践祚(せんそ)(諒闇(りょうあん)
 
践祚(せんそ))」「譲位(じょうい)・受禅(じゅぜん)(受禅(じゅぜん))」しかあり得ません。
 
現行皇室典範には、皇位継承に連続性を持たせる『践祚(せんそ)』の概念はないですが、昭和六十四年一月七日の昭和天皇崩御の際には、皇太子殿下(現在の今上陛下)が『同日』に「直ちに即位」され、実質上は『崩御・(諒闇)践祚』の皇位継承がなされました。であるならば、同じ日本国憲法(占領憲法)体制下の今回の御代替わりの儀式においても時間的間隙をつくらない形での『譲位・受禅践祚』の儀式を斎行しても問題ないはずです。
 
更に「退位特例法」第二条「天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位するものとする」とあるので、四月三十日「退位礼正殿の儀(退位礼)」・五月一日「剣璽等承継の儀(即位礼)」の分離挙行は「退位特例法」にさえも違反していることにもなります。
 
この四月三十日「退位礼」、五月一日「即位礼」の分離は、平成二九年一二月一日の皇室会議で決められたとされていますが、「皇室会議」とは名ばかりで「皇室」を監視弾圧する機関と化しています。一刻も早く天皇陛下中心の『皇族会議』を回復しなければ皇室の式微(しきび)は留まることを知らないと思います。
 
この様に今回の「退位式」「即位式」の分離は皇室伝統からも日本国憲法からも現行皇室典範ならびに「退位特例法」にさえも違反している状態なのです。このような皇室伝統という『法の支配』に対する〝不法〟や現行法制の『法治主義』に対しても〝違法〟となる状態で、一世一代の御代替わりの儀式を汚して果たして良いものでしょうか。
 
また今回、皇位継承に空白を生じさせる事例を作ることで、次の御代替わりの際に皇位継承で新たな揉め事が起った際に、皇位に長い「空白」が生まれ最悪の場合には「皇統断絶」
 
「天皇制廃止」へと向かわないかと危惧されます。なぜなら今回の「退位特例法」は「天皇の強制退位」「皇嗣の不就位」の法解釈の余地や、女性天皇・女系天皇への道を開く「女性宮家」を規定する皇室典範改定への道を開きかねない内容を持っているからです(注3)。
 
今回の皇位継承の在り方を考えれば、政府・国会は、今上陛下が宮内庁にお示しになられたように(注4)、光格天皇の御事例を踏まえた「譲位・受禅の儀式」を考えていくべきであり、その為には、次善の策として「退位特例法」を廃止して、皇室伝統を最大限に重んじた「皇室典範増補(『譲位』特例法)」に改正して天皇陛下に奉呈すべきだったと思います。
 
 
 
三 譲位・受禅の儀
 
今から凡そ二百年前に御譲位をなさった光格天皇は、朝議の再興・復古にご尽力あそばされた天皇でした。とりわけ大嘗会・新嘗祭の復古、禁裏(きんり)御所の復古的造営、伊勢公(く)卿(ぎょう)勅使の復古、石清水八幡宮・賀茂社の臨時祭の再興、さらに光(こう)孝(こう)天皇(てんのう)以来になる天皇号・諡号(しごう)の再興などが挙げられます。その際には先例の儀式を学ぶために有職(ゆうそく)故実(こじつ)の学問も盛んになりました。
 
 
 
光(こう)格(かく)天皇(てんのう)から皇太子恵(あや)仁(ひと)親王殿下(仁(にん)孝(こう)天皇(てんのう))への「譲位・受禅の儀」も平安時代の先例に学びつつ荘厳かつ盛大に斎行されました。
 
皇室伝統に沿った『譲位・受禅の儀』の内容は概ね以下の四点になります。
 
 
 
1 宣命(せんみょう)の儀
 
内裏(だいり)の紫宸(ししん)殿(でん)にて、天皇と皇太子が相向かわれ、皇太子に向かい宣命大夫(公家)が譲位の宣命文を読み終わると同時に、皇太子が新帝になられる。(今回の御代替わりの儀式には「宣命の儀」がありません。)
 
2 剣璽(けんじ)渡御(とぎょ)の儀(剣璽等承継の儀)
 
  新帝、前帝(上皇)・皇太后(上皇后)の同列にお座りなられ、新帝の御前に剣と璽、国璽と御璽が渡御される。その後剣と璽は御所の「剣璽の間」に遷幸される。
 
3 御笏(おんしゃく)・御袍(ごほう)捧持(ほうじ)の儀
 
  内侍二名が御笏(象牙製の牙笏(げしゃく))と御袍(ごほう)(黄櫨(こうろ)染御袍(ぜんのごほう))を捧持して儀場に入り、前帝の前の案(机)に並べる。前帝の了解を得て、新帝の傍に御笏・御袍の乗る案が捧持される。新帝が拝礼され、前帝が目礼で応答。新帝が儀上から出御される。
 
4 祝賀(しゅくが)御列(おんれつ)(パレード)の儀
 
 
 
平安時代からの『譲位・受禅の儀』はすべて内裏・紫宸殿(ししんでん)で行われています。
 
光格天皇から皇太子恵(あや)仁(ひと)親王殿下(仁孝天皇)への『譲位・受禅の儀』は例外で、文化十四年(西暦一八一七年)三月二十二日の一日で行われ、午前八時から仙洞(せんとう)御所(ごしょ)への光格天皇の行幸パレードで始まり、午前中に仙洞御所にて譲位の儀(節会(せちえ))、午後清涼(せいりょう)殿(でん)で受禅の儀(宣命)・紫宸殿で剣璽渡御の儀が行われ、夜に饗宴(きょうえん)の儀が清涼殿で行われたようです。
 
宮内庁の作成資料『歴史上の実例』では、いくつかの史料誤読、或いは史料改竄がなされています。
 
例えば『光格天皇実録』の紹介で、「光格天皇の譲位の際の例」とタイトルが銘打っていますが、正しくは「光格天皇・皇太子の譲位と受禅の例」、式場も「桜町(さくらまち)殿(でん)(仙洞御所)」のみ記載され、正しくは「儀場 桜町殿、清涼殿及び紫宸殿」とすべきです。
 
また光格天皇の『御譲位パレード』を、「築地の内の公家や所司代の関係者からお見送りを受けたもので,公衆に披露する御列(パレード)ではない。」としており、国立公文書館デジタルアーカイブに所蔵されている『桜町(さくらまち)殿(でん)行幸図(ぎょうこうず)』を見れば、その嘘が一目瞭然でわかります。
 
今上陛下が御譲位をご決意なさるにあたり、光格天皇のご事例を調べるよう宮内庁に御下問があったのであれば、宮内庁は歴史事実を枉げずに上奏するとともに、内閣総理大臣始め国務大臣・国会議員は、光格天皇の先例に則して『譲位・受禅の儀』を斎行しようと尽力するのが『臣下』の務めだと思います。とりわけ宮中に於ける儀式を管轄する宮内庁にあって、「歴史史料」が「公文書」としての特質を持つものであるとすれば、歴史史料を捻じ曲げてまで「退位礼」を挙行しようとするのは「公文書偽造の罪」にはならないのでしょうか。
 
 
 
四、「退位(たいい)礼(れい)正殿(せいでん)の儀(ぎ)」「剣璽(けんじ)等(とう)承継(しょうけい)の儀(ぎ)」 
 
 
 
政府による、第3回 「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会」に提出された資料によると、「退位礼正殿の儀」は4月30日午後5時から5時10分までの凡そ10分間、また「剣璽等承継の儀」は、5月1日午前10時30分に始まり、おおむね午前10時40分までの約10分で終わる予定になっています。
 
日本経済新聞の報道(平成三一年一月一八日)によると「政府は一連の儀式が憲法に抵触しないよう配慮した。憲法1条は天皇の地位は国民の総意に基づくと定め、4条は天皇の国政関与を禁じる。天皇が自らの意思で皇位を譲ると表明すれば、憲法に抵触しかねない。このため退位の儀式では陛下自ら天皇の地位を退く趣旨を述べない。首相が陛下の「お言葉」に先立って退位を宣言し、陛下への謝意を示す。歴代天皇に伝わる三種の神器のうち剣と璽(じ=まがたま)、公務で使う天皇の印の御璽(ぎょじ)なども陛下が出席する退位の儀式では引き継がない。用意された机の上に飾るにとどめる。皇太子さまに神器などを目に見える形で引き渡すと、自ら皇位を譲る意思を示したと受け取られる可能性があるからだ」と伝えています(注5)。
 
 この報道の通りだとすると、『皇室伝統』に則った『儀式』による皇位継承でなく、占領典憲・「退位特例法」などの『現行法制』の曲解に基づく継承です。天皇陛下の御叡慮である『譲位』が完全に否定され、首相による「退位宣言」となり、天皇の「退位」を政府・国会が恣意的に決定する事例となってしまいます。
 
また「退位礼正殿の儀」のあとの「剣璽」の所在は何処になるのでしょうか。斎藤(さいとう)吉(よし)久(ひさ)氏が指摘するように、「陛下とともに御所に戻るのか、それとも東宮に遷るのか、それともいったん賢所に遷るのか。いずれにしても、剣璽は皇位とともにあるという皇室の伝統にそぐわない状況が約17時間、発生する」ことにならないでしょうか(注6)。
 
そして今回の「剣璽等承継の儀」に於いて皇太子殿下に剣璽を渡す主体は何処になるのか。杞憂かもしれませんが、もし政府という事になれば、一時的にも天皇から時の政府に剣璽が簒奪(さんだつ)されたことにならないでしょうか。
 
今上陛下から皇太子殿下に剣璽等が直接承継されないとすれば、「受禅」も成り立たず、一時的な「皇統断絶」あった、あるいは神武天皇から続いた125代の皇室伝統が途絶え日本国憲法に基づく新たな皇朝(王朝)が始まると受けとられかねない憲法解釈が成りたつ可能性が出てくることを危惧します。このままいけば、まさに皇室伝統に基づく『世襲』原理から『国民主権』に基づいた『国民の総意』による皇位継承へと力点が移行したことを示す事例になってしまいかねません。
 
本来の皇位継承は臣民(国民)の干渉を断じて許してはならないのです。
 
 
 
五、まとめ
 
今回の一連の御代替わりの儀式には、他にも政府による天皇の改元大権の剥奪・経費削減に伴う大嘗宮の簡素化など数多くの疑問・問題点や課題が見られ、今後の皇位継承に禍根を残すのではないかと危惧されます。
 
今後の皇室の在り方は、早急に皇室の自治と自律の回復の為の施策をなすことが必要だと思います。具体的には少なくとも以下の事に着手していくべきです。
 
①    占領憲法無効宣言を為すとともに、大日本帝国憲法現存確認宣言をすること。
 
②    正統皇室典範を復元して御皇室に奉還すること。
 
③    復元された正統皇室典範を中心とする宮務法体系と復元された大日本帝國憲法を中心とした国務法体系の二元体制の整備をすること。
 
④    皇位継承の安定化のために旧宮家の皇籍復帰を為し、堂上公家の復活を含め皇室の藩屏を厚くすること。
 
⑤    皇室財産を潤沢にしていくこと。
 
⑥    皇位継承学・宮中祭祀・有職故実など天皇・皇室に関する学問を再興すること。
 
 また私たち臣民(国民)の側もこれからの皇室の危機や国難に対して相当な覚悟が迫られると思われます。私たちは、祭祀の再興や皇室の弥栄を永続させるためにも、「家」や「地域」の祭祀を篤く実践していく必要があるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
(注1)南出喜久治「典範奉還」(ときみつる會『心のかけはし』平成29年9‐10月号)参照。
 
(注2)拙稿「『退位特例法』の無効廃止と帝國憲法・正統皇室典範の復元を」(黎明教育者連盟ホームベージ『ブログ・講師たちのつぶやき』2017年11月13日)参照。
 
(注3)「退位特例法」の問題点については、中川八洋『徳仁《新天皇》陛下は、最後の天皇』第一章「秋篠宮殿下を『皇太弟』としない特例法は、何を狙う」(p20〜64)、拙稿「『退位特例法』の無効廃止と帝國憲法・正統皇室典範の復元を」(黎明教育者連盟ホームページ『ブログ・講師たちのつぶやき』2017年11月13日)参照。
 
「天皇の強制退位」に関して退位特例法第一条は国会が「象徴として公的ご活動に精励しなければ、天皇を強制的に退位できる」との解釈が可能になること。「皇嗣の不就位」については、「退位特例法」では、皇太子の御位が空位になっており、秋篠宮殿下は皇太子・皇太孫以外の皇嗣殿下ですので、占領皇室典範第一一条第二項によって、「皇室会議の議」によって「皇族の身分」を離れさせる可能性があること。「女性宮家」については付帯決議に明記されており、菅官房長官は「法案の作成に到るプロセスや、その中で整理された基本的な考え方は、将来の先例になりうる」としており、「皇室典範改定」議論がこの先出て皇位継承で問題が起こりうることが予測されます。
 
(注4)産経新聞「陛下 光格天皇の事例ご研究 宮内庁に調査依頼 6年半前」(2017年1月24日付)
 
(注5)日本経済新聞「退位・即位 儀式は10分 憲法抵触に細心の配慮」」(2019/1/18 2:06日本経済新聞 電子版)
 
(注6)斎藤吉久のブログ「賢所の儀は何時に行われるのか?──いつまでも決まらない最重要儀礼」(2019年1月20日記事)
 
 
 
【参考文献】
 
・倉山満「国民が知らない上皇の歴史」(祥伝社新書)
 
・宗教ジャーナリスト・斎藤吉久のブログ(So-netブログ)
 
・柴田 顕弘「『退位特例法』の無効廃止と帝國憲法・正統皇室典範の復元を」(黎明教育者連盟ホームページ『ブログ・講師たちのつぶやき』2017年11月13日http://reimeikyoren.blog.fc2.com/blog-entry-130.html)
・中川八洋ゼミ講義「譲位禁止『4・30』強行の安倍晋三 」
 
(http://nakagawayatsuhiro.com/?cat=2)
 
・中川八洋「徳仁《新天皇》陛下は、最後の天皇 悠仁親王殿下の践祚・即位は、国民世襲の義務」(ヒカルランド)「悠仁天皇と皇室典範」(清流出版)
 
・藤田覚「光格天皇 自身を後にし天下万民を先とし」(ミネルヴァ書房)
 
・藤田覚「幕末の天皇」(講談社学術文庫)
 
・「平成の退位 五大疑問」(「オノコロこころ定めてyahooブログhttps://blogs.yahoo.co.jp/umayado17/66216419.html」)
 
・南出喜久治「典範奉還」(ときみつる會『心のかけはし』平成29年9-10月号)
 
・吉重丈夫「歴代天皇で読む 日本の正史」(錦正社)
 
・「縮刷版 みことのり」(錦正社)
 
・「第2回 天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典準備委員会 配布資料」(首相官邸ホームページ)https://www.kantei.go.jp/jp/singi/taii_junbi/dai2/gijisidai.html
 
・「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会」(首相官邸ホームページ)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/gishikitou_iinkai/index.html
 
・産経新聞「陛下 光格天皇の事例ご研究 宮内庁に調査依頼 6年半前」(2017年1月24日付)https://www.sankei.com/life/news/170124/lif1701240001-n1.html
 
・日本経済新聞「退位・即位 儀式は10分 憲法抵触に細心の配慮」」(2019/1/18 2:06日本経済新聞 電子版)
 
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40134620X10C19A1EA1000/
 
・国立公文書館デジタルアーカイブ「桜町殿行幸図」
 
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0200000000/0201050000/00?fbclid=IwAR2MCrgoi1UFi7KfxG91D-EHXeCJwyF3vBLo1gXcKGLB_5lP0DXIY2Ln6bo

日本の神話「古事記」の始まりはこうである。
「天地の始めの時、高天原になりませる神の御名は、天の御中主の神」
「生長の家」創始者であられる谷口雅春先生は、この一文をこう解釈しておられる。
「宇宙(現象世界)のはじまる前の創造神・天の御中主の神は、高天原(実相世界:天界)に偏在し、神の意識を天界に鳴り響かせていたである」
さらに、解釈は次のように進む。
「そして、神の響きの中から宇宙が生まれ、現象世界(物質より成る世界)が成立したのである※1」
 この一文を著者が初めて読んだとき、真っ先に思い浮かんだのが、佐藤勝彦先生(東京大学名誉教授)が提唱された宇宙のインフレーション理論であった。
 インフレーション理論では、宇宙の誕生について、真空の揺らぎ(波動の位相・周波数に微妙に生じる差)に触発されて宇宙が生まれ、生まれてから10のマイナス44秒後の急激な膨張(インフレーション)、さらに、10のマイナス34秒後のビッグバンを経て現在の姿に成長した、と、考えられている*2。
 まさに、神の響き(真空の揺らぎ)の中で今の世界(宇宙)が生じたという、神話の世界と最新の物理学の世界の融合をみた思いがし、宇宙の開闢(かいびゃく)を悟っていた古代日本民族の直観力に、筆舌に尽くしがたい衝撃を受けたのを憶えている。
 
 天地創造(宇宙の誕生)を、そのように捉えてきた古代日本人だが、そんな彼らをとりまく神々は、それぞれ役割はあれど、特別に存在意義を問われることはなく、その全てが、天界に遍満する天の御中主の神に帰結している。かの天照大神も、乱暴な言い方をすれば、伊邪那岐の神がただ顔を洗った時に生まれた訳で、特別に創意があって生まれたという訳ではないし、他の神々も、その誕生の経緯は似たり寄ったりである。言うなれば、「何となく」生まれ、「何となく」存在しているのが日本の神々の特徴であり、その代表格が、「何となく」偏在している天の御中主の神であろうか。
 最近、ディスカバリーチャンネルを視聴していたとき、ある宇宙ドキュメンタリー番組で、登場した宇宙物理学者達が口を揃えて唱えている言葉が印象に残った。曰く、「宇宙は漠然と生まれ、漠然と存在している」、と。
 その言葉と相まって、思い出したのが、過去に聴いた著名な物理学者が発した言葉、「宇宙の発現には神を必要としない」である(この言葉を発したのが、誰あろうスティーブン・ホーキング博士)。
 これらの言葉に含まれる科学者たちの思いは、概ね次のようなものであろうか。
「宇宙には誕生から存在に至るまで、神は存在しない」
 中世の教会による弾圧・偏狭な神学者の存在に辟易させられてきた欧米の物理学者たちの、反抗心に似た思いも、これらの言葉の中から感じることが出来る。
 もちろん、このような理論は、創造神を唯一絶対の神と崇める一神教の信徒たちには、到底受け入れられるものではないであろうが...
 ところが、現代物理学者たちが唱える「漠然と存在する宇宙」は、「何となく」存在・偏在している神々を感じ取ってきた日本人には、特に抵抗もなく受け入れることができる。何せ、日本の神々は、言い方を変えれば皆「漠然と存在」するのだから、それこそ宇宙の始まる前から宇宙が出来て後の現在に至るまで、いくらでも神々が存在できる。
 ここでも、「漠然と存在する宇宙」を、「何となく存在する神々」として認識してきた古代日本民族の直観力に驚嘆させられる。
 ちなみに、日本の神道にも似た宇宙観は、古くはインドのヒンドゥー教や仏教にも観られ、かつてカール・セーガン博士がヒンドゥー教の宇宙観についてテレビ番組「コスモス」で解説していたのを憶えている。
 進化論も含め、案外現代科学というものは東洋的な宗教観にマッチするようである。
 
 しかし、日本の神道・神話に観られる宇宙観(宗教観)で特筆すべきは、これが国家・社会のシステムとして現代まで生き続けていることである。
 それを最も顕著に現しているのが、言わずと知れた御皇室と天皇陛下の存在である。
 御皇室もまた、神代の時代から現代に至るまで、日本人の生活の中に「何となく」存在し、そして「何となく」敬われている。そのことが、権力闘争と国家の存亡を繰り返してきた他の国々の権力者と決定的に異なるところであり、かえって尊く、かけがえのない存在となっている所以なのである、と、宗教学者島田裕巴先生が、御皇室と天皇陛下の存在意義ついて述べている※3。
 この「何となく存在する」というのは、日本人の感覚でなければ解釈の難しいところだと思うが、そのような古代より続く日本人の宇宙観があったればこそ、神代に連なる系譜を今に引き継ぐ御皇室・天皇陛下を中心にいただく日本という国がこの世界に現されてきたのではないか、そんなふうに思えるのである。
 
 現在、世界には192の国家があると言われている。しかし、現在に至るまで2000年以上の長きにわたり存続・繁栄してきた国家は、日本を除いて他にない。
 その繁栄を支えてきたのが、古代日本人の悟ってきた宇宙観であると考えたならば、その宇宙観を記し伝えてきた神話とは如何にありがたく尊いものであるか、また、そこに素直に(直感を研ぎ澄まして)学ぶことが如何に大切なことであるか。日本の歴史を学び、また、将来の国の発展を願うほどに、そのことを強く思う次第である。 成瀬
 
※1 谷口雅春著「限りなく日本を愛す」
※2 アットホーム(株)「こだわりアカデミー」,「宇宙創生を解明する”インフレーション理論”」http://www.athomeacademy.jp
※3 別冊宝島「天皇のすべて」

昭和21年正月元旦、昭和天皇によって出された詔勅は、天皇の「人間宣言」と世間一般には理解されていますが、これは誤りです。正しくは『年頭、国運振興の詔書(新日本建設の詔書)』です。
 
五ヶ条のご誓文昭和天皇は、この詔勅の発表に際し、『五箇条の御誓文』を入れられる事を指示なされ冒頭に掲げられる事となったのですが、その真意は昭和52年の記者会見で以下に述べられている通りです。
 
(記者)ただ、そのご詔勅の一番冒頭に明治天皇の「五箇条の御誓文」というのがございますけれども、これはやはり何か、陛下のご希望もあったと聞いておりますが。
(天皇)そのことについてはですね、それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった。
それを述べるということは、あの当時においては、どうしても米国その他諸外国の勢力が強いので、それに日本の国民が圧倒されるという心配が強かったから。民主主義を採用したのは、明治大帝の思し召しである。しかも神に誓われた。そうして「五箇条御誓文」を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います。
それでとくに初めの案では、「五箇条御誓文」は日本人としては誰でも知っていると思っていることですから、あんなに詳しく書く必要はないと思っていたのですが。
幣原(注・当時の首相)がこれをマッカーサー司令官に示したら、こういく立派なことをなさったのは感心すべきものであると、非常に賞讃されて、そういうことなら全文を発表してほしいというマッカーサー司令官の強い希望があったので全文を掲げて、国民及び外国に示すことにしたのであります。
(記者)そうしますと陛下、やはりご自身のご希望があったわけでございますか。(天皇)私もそれを目的として、あの宣言を考えたのです。
(記者)陛下ご自身のお気持ちとしては、何も日本が戦争が終わったあとで、米国から民主主義だということで輸入される、そういうことではないと、もともと明治大帝の頃からそういう民主主義の大本、大綱があったんであるという……。
(天皇)そして、日本の誇りを日本の国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたから。日本の国民が日本の誇りを忘れないように、ああいう立派な明治大帝のお考えがあったということを示すために、あれを発表することを私は希望したのです。(高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』文藝春秋刊)
 
私たち『国民(臣民)』は、民主主義を採用するにあたり、神に誓われた明治大帝の思召しを尊重なされた昭和天皇陛下の大御心こそ、このご詔勅で拝察すべきでありましょう。そして私たちが日本人として、「日本の誇りを忘れない」ように生きていくことが大切なのです。
 
またいわゆる「神格」否定とされる箇所は、次の通りです。
 
「天皇を以て現御神とし、かつ日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものに非ず。」(原文は、正仮名正漢字)
 
ここでは、日本の伝統的な神観念と異なる、他の民族に優越する民族で、世界を支配する運命を有する神という架空なる観念を否定しているのです。更にいえば、現身の天皇に、西洋的な絶対無謬神を重ねる見方を否定したとも言えます。
 
神道思想家の葦津珍彦氏は、『現御神』を次の様に説明されています。
 
「祭りこそは天皇の第一のおつとめである。(中略) この天皇の存在が、日本人の神聖をもとめる心を保って来た。この天皇を、日本人は現御神(現人神)という。現人神というのは人間でないというのではない。人間であらせられるからこそ、皇祖神への祭りを怠らせられないのである。天皇は、神に対して常に祭りをなさっている。そして神に接近し、皇祖神の神意に相通じ、精神的に皇祖神と一体たるべく日常不断の努力をなさっている。天皇は祭りをうけられているのではなく、自ら祭りをなさっている。祭神なのではなくして祭り主なのである。その意味では、人間であらせられる。けれども臣民の側からすれば、天皇は決してただの人間ではない。常に祭りによって皇祖神と相通じで、地上において皇祖神の神意を表現なさる御方であり、まさしくこの世に於ける神であらせられる。目に見ることのできる神である。だからこそ現御神(現人神)と申し上げる。」(葦津珍彦『日本の君主制』)
 
私たちは、日本人としてまず伝統的文化的な「神」観念を取り戻さなければなりません。そのためには、一人一人の人間が「神聖」な存在であることに目を向けて行く必要があると思います。『新日本建設の詔書』は、まさに『神国日本・皇国日本(祭祀の国日本)』の国柄と戦後日本及び日本人の在り方を考えさせるご文章と言えるのではないでしょうか。

○明治天皇と教育勅語○
今年平成22年は「教育勅語」煥発120年の節目の年です。教育勅語は明治天皇の格別の思し召しにより明治23年に煥発されました。明治天皇は680余年にわたって続いていた武門の政治、封建制度を改め、明治維新の大業をなしとげられました。明治維新を成し遂げた日本は急激に欧化主義に陥り、文明開化の名の下に、欧米のものは何でも優れているという風潮に流され、風俗は乱れ、道徳倫理は低下する一方でありました。(現代の日本と似ていると言われる所以はここにあると思います。)
明治天皇はこのような風潮を大変憂慮されておりました。
近代日本の建設に当たっては、特に教育の普及と道徳の実践について御心配になられ、政治に左右される事無く、軍政にとらわれず、哲学的難解をさけ、宗教的に一宗一派に片寄らず、国民の誰もが心がけ実行しなければならない徳目を挙げて、道徳の普及、教育の向上を熱心に望まれて、「教育に関する勅語」をお示しになられました。わたくしたち国民の、永遠不変の道徳教育の基礎ともいわれます、親子兄弟、夫婦、友人間の人倫、謙遜、博愛、知徳の修得、道義的人格の完成、社会的義務等を勅語にお示しになった御心は、いかに時代が変わっても、本質的にはいささかの変わりもないと感じます。私たちが歩まねばならない道しるべとして、その徳目を実践して立派な人となり、平和な家庭を築き道徳的な社会作りに努力したいものです。


教育勅語の 十二の「大切なこと」
 
一、 親に感謝する           七、 知徳を磨く
「お父さん、お母さん、ありがとう」  「進んで勉強し努力します」
 
二、 兄弟仲良くする          八、 公のために働く
「一緒にしっかりやろう」        「喜んでお手伝いします」
 
三、 夫婦で協力する          九、 ルールに従う
「二人で助けあっていこう」       「約束は必ず守ります」
 
四、 友達を信じあう          十、 祖国に尽くす
「お互い、わかっているよね」     「勇気を出してがんばろう」
 
五、 みずから反省する         十一、伝統を守る
「ごめんなさい良く考えてみます」「いいものは大事にしていきます」
 
六、 博愛の輪を広げよう        十二、手本を示す
「みんなにやさしくする」       「まず自分でやってみます」

 

「教育勅語」 口語訳

 

 わたくしは、我々の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現を目指して、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、わが国民が忠孝両全の道を完うして、みんなで心を合わせて努力した結果、今日に至るまで見事な成果をあげてきたことは、もとより日本の優れた国柄の賜物といわねばなりませんが、教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
 国民の皆さん、子供は親に孝養を尽くし、兄弟、姉妹は互いに助け合い、夫婦は仲睦まじく和らぎ合い、友達は胸を開いて信じ合い、また自分の言動を慎み、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで社会公共のために貢献し、また法律や秩序を守ることは勿論のこと、非常事態が発生した場合は身命をささげて国の平和と安全のために奉仕しなければなりません。
これらのことは、善良な国民として当然のつとめであるばかりでなく、
我々の祖先が今日まで身をもって示し残された伝統的な美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、われわれ子孫の守ら
なければならないところです。それと共に、この教えは、昔も今も変わらない正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国に示しても、まちがいのない道であります。従って、わたくしも国民の皆さんと共に、父祖の教えを胸に抱いて、立派な徳性を高めるように、心から願い誓うものであります。


 

明治23年より教育勅語が教育現場で実践されるようになり、日本は道徳人倫の道を歩む、道義国家として、世界からも高く評価される国でありました。
しかし、教育勅語は戦後、アメリカ占領期間中に廃止せられ、教育現場から姿を消しました。すなわち、これは占領軍GHQが日本の国体破壊の三本柱として「神道指令」「天皇人間宣言」そして「教育勅語」の廃止でありました。
(「神道指令」「天皇人間宣言」については次の機会に譲ります。)
 
教育の崩壊、家庭の崩壊、道徳倫理の欠如、利己主義、個人主義、等々の
問題が叫ばれて久しい今日でありますが、この教育勅語の廃止をはじめ、戦後に占領軍の圧政のもと制定された憲法等の法律などの影響であると強く感じます。今こそ「教育勅語」の復活が必要であると考えます。各家庭におかれましては、教育勅語の十二の徳目をぜひ家庭教育として実践して明るい家庭を築いてほしいものです。
 
ドイツやアメリカでさえも、戦後にこの教育勅語の道徳を参考にし、国家再建、教育再生に役立てたと聞きます。ドイツの大統領室には今でも「教育勅語」が掲げられているそうです。
 
昨今、教育勅語と戦争を結びつける言論を耳にする事がありますが、日本人としての道徳を説いたものであり、上記の「大切なこと」や口語訳をお読みになれば分かる通り、戦争と関連づける事には無理があるでしょう。